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大正区の始まり
大正区は、江戸時代以前〜から続いてきた三軒家/難波島と、江戸時代以後木津川/尻無川の河口に開発された新田と、さらに明治、大正時代に造成された埋立地によって形成されています。埋め立てが完了した大正末に、ほぼ今の大正区の区域が確定しました。<詳しくは→大正区ホームページ>
※ちなみに区役所裏の「昭和山」は、大阪地下鉄工事で出た土を積み上げて作られました。

沖縄からの移住
大正中期の1910〜20年代、第一次世界大戦後の「ソテツ地獄」と呼ばれる経済の長期低迷で貧困に陥った沖縄から、海外や本土に移民や出稼ぎに行く人が急増。中でも紡績を中心に工業化が急速だった大阪は定期航路もあり、出稼ぎも集中しました。
 港に近い大正区には材木製造所や製鉄工場が次々と立ち並び、船から降りた県人は港で荷降ろし作業、工場間で材木のおがくず、鉄くずを売って歩いたり、女性は紡績女工として働いていました。
 家を持たない沖縄の人たちは、埋め立て地だった同区一角の湿地帯に、拾ってきた材木を持ち寄ってバラック住宅を建てます。県人は「クブングワァー(くぼ地)」と呼んでいましたが、周囲の人達は「沖縄スラム」と蔑んだのです。
当時、大正区以外では、依然として「朝鮮人、琉球人、シナ人お断り」の看板が貼られており、「なんかしたらすぐ琉球人といい後ろ指さされる。」というほど差別されました。沖縄の誇りである唄や踊りは、今では脚光を浴びていますが、当時は布団をかぶって弾いたり、ごく身内が集まった時に密かに踊っていたということです。<参考文献:沖縄タイムス「復帰30年・オキナワまいんど02」記事、他>